大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和35年(ネ)2253号 判決

判  決

宇都宮市塙田町五〇四番地

控訴人(附帯被控訴人)

栃木県

右代表者知事

横川信夫

右訴訟代理人弁護士

堀家嘉郎

福岡市長浜町三丁目一七番地公団

アパート五〇三号室

被控訴人(附帯控訴人)

谷川宮太郎

右訴訟代理人弁護士

柳沼八郎

松崎勝一

久保田昭夫

内藤功

竹沢哲夫

内田博

松尾翼

相磯まつ江

右当事者間の昭和三五年(ネ)第一、二六三号慰藉料等請求控訴および同年(ネ)第二、二五三号同附帯控訴事件につき、当裁判所は、昭和三六年二月四日に終結した口頭弁論に基いて、次のとおり判決する。

主文

本件控訴および附帯控訴をいずれも棄却する。

控訴費用は控訴人の、附帯控訴費用は附帯控訴人の各負担とする。

事  実(省略)

理由

当裁判所は、当審における証拠調の結果を参酌して、原判決認定事実の一部を次のとおり変更し、かつ当事者の主張に対して次の判断を附加するほか、原判決が認定したと同じ事実を認定し、原判決説示と同じ理由によつて、控訴人に被控訴に対し慰藉料として金七万円を支払うべき義務あるものと認める。

一、被控訴人が警察署から旅館に帰つて後に趙鐘培のところに電話をかけたのは、その直後のことであるが、東京の吉村、東城両弁護士に電話で当夜の経緯を連絡したのは、翌早朝五時か六時のことであつたことは、当審における証人吉村節也の証言および被控訴人の本人尋問の結果に徴して明らかである。

二、松本、篠崎両巡査が被控訴人を指名手配書の趙鐘基ではないかの疑惑をもつにいたつた理由として、控訴人は、(1)被控訴人が趙鐘基の立廻先として手配されてあつた従兄弟の趙鐘培と同行していたこと、(2)両巡査が前に見せられた指名手配書の趙鐘基の写真等に被控訴人の容貌年が似ているように思われたこと、および(3)被控訴人の態度におちつきがなく、不審を抱かせるものがあつたことの三点を主張する。しかし、そのうち(2)の被控訴人が指名手配書を所持してこれと照合したというのではなく、しかも客観的に右手配書(成立に争のない甲第四号証)の人物と当審における本人尋問に出頭した被控訴人とを比較すれば、両者は全く見誤るおそれがないほど相異しており、そのことは、原審における証人佐藤徹雄の証言によつて認め得る、宇都宮警察署の刑事官であつた同人が、同署に出頭した被控訴人を指名手配書と対照して一議に及ばず人違いであると断定した、という事実に徴しても明らかであるから、両巡査が被控訴人を指名手配書の人物に似ているように思つた、というのも、その漠然たる印象にもとづいたものと考えるのほかない。また、(3)の被控訴人の挙動に不審の点があつたということも、被控訴人は当夜夕食後就寝前に趙鐘培に案内されて宇都宮の繁華街を散策していたのであるから、多少あちらこちらを見廻わしながら歩いていたということはあろうが、それ以上何ら怪しむべき態度を示していたものとも推測できないので、これまた両巡査の漠然たる印象にとどまるものと考えるのが相当である。こうしてみて行けば、結局被控訴人に疑いをかけられた理由としては、指名手配の被疑者の立廻先と予想されていた趙鐘培と同行していた、ということだけであつて、その他の二点はこれにともなつて両巡査の心裡にかもし出された根拠に乏しい印象であるに過ぎないものというべきである。

もちろん、かかる場合の両巡査としては、被疑者の立廻先として警戒すべきものと指定された趙鐘培と見知らぬ男とが同行していたところを目撃したのであるから、あるいは被疑者ではないかの疑いをもつて捜査に着手することは、当然の職責に属しようが、その嫌疑の理由が前記の程度であつて、人違いの公算は相当に大きいとみなくてはならないので、万一人違いの場合人民に与える損害をできる限り少なくするように留意すべきであるのに、両巡査相談の上松本巡査から小川警部等上司に報告するのにさいして、「趙鐘基によく似た男が香月荘に入つた。」とか、「はつきり分らないが似ている。」というように、被控訴人が指名手配書の人物に似ていることを強調したことは、原判決認定のとおりであり、また当審における証人小川英一の証言によるも明らかであるので、本件捜査はその第一歩においてすでに合理性および着実性の要請にそわない転卒なものであつたといわなくてはならない。

三、松本巡査の報告を受けた小川警部としても、いやしくもそのような情報を得た以上、放置しないで適切な捜査行為に出ずべきことは、その当然の職責である。しかし、これらの情報の信憑性の程度やこれに基く爾後の捜査の緊急を要することの程度などにしたがつて、その後の行動の軽重について斟酌を加うべきは、これ亦当然の注意義務であるといわなくてはならぬ。けだし、犯罪捜査はその対象である人民の人権に影響する機会の多いものであるから、その権限を行使する官憲においても、人民の自由や安全に関係する行為は努めて必要最小限度にとどめることが、当該公務員の最もたいせつな心がけとして要求されるところであつて、その趣旨は、刑事訴訟此第一条に「公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ」といい、また、犯罪捜査規範(昭和三二年七月一一日国家公安委員会規則第二号)第二条に「個人の基本的人権を尊重し」と明記されていることにも、表われていると考えられるからである。

ところで、本件における小川警部の行動は、松本巡査のもたらした情報が、もしこれを冷静に検討したならば、前に認定したように被控訴人を指名手配の趙鐘基であると認めるについて確実性の薄いものであることを知りえたであろうにかかわらず、これを過大に評価して、被控訴人が趙鐘基であることは、ほとんどまちがいないと軽信したのではないかと思わせるふしがある。もし、そうでないとしたならば、当夜はすでに午後十時を過ぎており、また被控訴人がにわかに逃走を企てるような形跡があつたことも認められないから、夜中床に入つて休息していた被控訴人に職務質問し、警察に同行を求めるような直接行動に出る前に、少なくともさらに指名手配書を調査するとか、旅館の主人なり従業員について被控訴人はなじみの客であるか、ないか、またその称していた氏名や、ことに趙鐘基を同行して旅館に入つた前後の行動等について側面捜査を遂げる位のことは、当然あつてしかるべきであつた。もつとも、当審における証人磯以久男、小川清作の各証言によれば、栃木県警察本部警備課保官の本件指名手配書は当夜これを保存してあつたロツカーの鍵をその取扱者磯以久男が所持したまま退庁し、しかも私用のため他出していたため、取り出すことができなかつた事実を認めることができるけれども、当審における小川証人は、趙鐘基の写真は複写した一枚が机の中にあり、出かけるときそれを見たように思う、と供述しながら、それを本人との対照のため所持した、とは言つていないので、小川警部の意中、被控訴人の趙鐘基であることの公算は大であると断じ、これを逮捕するか、あるいは任意同行の形式で警察に連行することのほかには他意がなかつたものと推測せざるを得ない。なお、右指名手配書は、警備課保管のものは、右認定のように取出不能であつても、本件現場附近の宇都宮警察署に同じものが配布されてあり、ただちにその人ちがいであることが判明したこと、前に認定したとおりであるから、小川警部が少しく意を用いれば、直接被控訴人にのぞむ前に同署に寄り、あるいは部下に命じて取り寄せて、これを携行することは、きわめて易々たることであつたと、推測することができる。また、原審および当審における証人山口麗子の証言および被控訴人本人尋問の結果、原審証人山口ヤエの証言によれば、被控訴人は事件当日香月荘に投宿してから事件発生まで宿泊人名簿に氏名を記載する等のことはなかつたが、宇都宮、都留の各検察庁に照会したうえ、甲府の検察庁に長距離電話をかけて友人の検事と話をしたことを、旅館の女主人の山口ヤエやその娘で女中代りに働いていた山口麗子がそばで見て知つており、また麗子は被控訴人の靴のマークや同人との対談で、同人が福岡から来たことは分つていたことが明らかであるから、もし小川警部らが事前にこれらの状況を調査し、なお職務質問の必要があつたとしても、それから本人に接したとすれば、被控訴人が趙鐘基、あるいはその他の密入国者であることの疑いは、一層たやすくぬぐいさることができたものと思われる。小川警部らがこれらの事前捜査の労をとらなかつたことは、被控訴人が趙鐘基であることの確認よりも、ひたすら被控訴人を警察に連行することに急であつたといわれても仕方がない。

被控訴人の居室で被控訴人と面接したのちも、被控訴人は自己の身分職業を明らかにすべく、小川警部の職務質問には包みかくしなく答えたうえ、所持の日記、ノート類、刑訴コンメンタール、証人尋問控などを示し、刑訴コンメンタールに押してある自己の肩書入ゴム印も見せ、またすでに警察署に出頭の準備をしている時にではあつたが、一連番号つきの弁護士バツジをも見せて、るゝ説明したにかゝわらず、小川警部は部下に命じた福岡警察署と宇都宮地方裁判所とに対する電話照会の結果を漫然と待つのみで、被控訴人の提示したこれらの資料に一顧だに与えなかつたことは、原審および当審における被控訴人本人尋問の結果、また証人小川清作の証言によるも、明白である。ところで、これらの資料をしさいに検討し、また被控訴人の説明を参照すれば、被控訴人が弁護士を職業とするものであることは、容易に知り得たものと思われる。控訴人は被控訴人が名刺を示さなかつたことをもつて、その過失であると主張するが、被控訴人の示した前記の各資料は単なる名刺にましてその証明力のあるものと認めるのが相当である。被控訴人がそのとき自己に対する疑惑を解くべく懸命の努力を傾けたであろうことは、たやすく推察し得るところであつて、その際被控訴人が興奮して多少乱暴な言葉を用いたことがあつたとしても、すでに寝床に入つて休息中、突然数名の警察官の訪問を受け、思いもよらない疑で質問され、かつ警察への同行を求められたという状況を考え合せれば、たとえ弁護士を業とするものであつても、多少は興奮を禁ずることができず、また当時思いつくかぎりの手をつくして弁明しても、ほとんど取り上げて聞いてももらえないような有様であつたとすれば、相当語気の荒くなることも免がれがたいことであるので、これらのことをもつて被控訴人に対する疑惑を深めたとする控訴人の主張は当らない。要するに、小川警部の被控訴人に対する職務質問の続行は、いますこし被控訴人の弁解に注意し、その提出した資料を調査すれば容易に疑惑が解けたであろうのに、これらの義務の遂行を怠つたため、正当な権限行使の限界を逸脱するにいたつたというべきである。

被控訴人が趙鐘基でないとしても、他の犯罪者でないかと疑うに足るべき状況にあつたことは、なんらこれを認むべき証拠がない。

四、控訴人は、小川警部らが指名手配書を携行しなかつたことは、元来指名手配書はその性格にかんがみそれほどの正確性を期待し得ないものであるから、これをもつてその過失とすることはできない、と主張するが、そもそも被控訴人に対する疑惑は、指名手配書の被疑者に似ていること(しかし事実はほとんど似た点のなかつたことは、前に認定したとおりである)に出発することは、控訴人の自ら主張するところである。してみれば、本件捜査について、まず右指名手配書との対照より始められなければならないことは、多く言うまでもないことであろう。また、これを除いて、被控訴人が密入国その他の犯罪者であることを疑うに足る状況が存した事実は全くこれを認めることができない。

五、松本巡査、小川警部らの本件捜査権限の行使は、これを開始するについては、一応刑事訴訟法、警察官職務執行法等の法規にしたがつてなされたのであるけれども、その行使について当然払うべき注意義務を怠つたため、その限度を逸脱するにいたり、実質的に違法な公権力の行使となるに至つたのである。そして、その実質的に違法であることの根拠は、被控訴人が趙鐘基、あるいはその他の犯罪者でなかつたことはもちろん、そう疑わるべき何ら合理的な原因がなかつたことに存するので、被控訴人が趙鐘基その他の犯罪者であつた場合を想定して、本件捜査が適法たることを失わないとする所論は採用できない。そして、小川警部らの右過失は犯罪捜査規範等の訓令に違反し、妥当でないというにとゞまらず、被控訴人に対する公権力の行使として、被控訴人の当然に忍容すべき限界を逸脱し、違法性をおびるにいたつたものと解するのが相当である。

六、小川警部ら警察官が被控訴人の居室に入室するについて被控訴人の承諾を得たかどうかについての当裁判所の認定は、原判決の認定するところと同じである。また、入室と同時に小川警部が被控訴人の肩に手を置いたかどうかについては、当審においても被控訴人本人は、「小川警部が私の肩に手を下ろし、「お前は朝鮮人のチヨーヨーキだから連れて行く。」と云つた」旨述べているし、また原判決認定のように急迫した警察官の入室の態度と、それに驚愕して寝床の上に起き直つた被控訴人の応待の模様とを考えれば、たとえ反抗を抑圧する程度にいたらずとも、被控訴人の肩に手をおく位のことは、あつたであろうとも推測されるので、原判決の認定をくつがえすことができない。さらに被控訴人が自発的に宇都宮警察署に出頭したということも、被控訴人が手をつくして自己の身分職業を立証しようと努力したにかゝわらず、ほとんど一顧だに与えられなかつたので、もはや警察に出頭して、他の警察官に事情を述べ、疑をといてもらうほかないとし、任意に同行したのであつて、控訴人主張のごとく単に小川警部らの処罰を求めるために出頭したのであるとすれば、なにも当夜遅く出かける必要はないわけである。したがつて右出頭をもつて全く被控訴人の自由意思に出たものということはできない。

なお、原審および当審証人小川清作の証言、当審証人鈴木一也、宇梶治七の各証言および右鈴木証人の証言により成立を認め得べき乙第一二、三号証によれば、小川警部は当夜、被控訴人の弁解をきいて、巡査鈴木一也に命じ、電話で福岡警察署に被控訴人の身元照会をしたほか、宇都宮地方裁判所に対して、明日被控訴人のいうような趙鐘培に対する出入国管理令違反被告事件の公判(事実は山口地方裁判所下関支部の出張による証拠調)があるかどうかを照会させ、宇都宮地方裁判所から同裁判所関係でそのような公判は行われないが、公判以外の事項については明日担当者が出勤するまでは調査不能である旨の回答を得た事実が明らかであるが、単にこの一事をもつて、小川警部らの本件職務執行について職務上の義務違背があつたとする原判決の認定をくつがえすことはできない。

七、本件警察官らの違法な公権力の行使によつて被控訴人がその住居および自由の安全を害され、名誉とくに名誉感情をいちじるしく傷けられたことは、原判決の認定するとおりである。被控訴人が弁護士であるからといつて、これらの損害がないとか、あるいはこれを甘受すべしとする何らの根拠がない。これらの損害は、前記警察官らの職務上の義務違背にかんがみ、被控訴人が弁護士であると、はたまた、その他のものであるとにかゝわりなく、当然その忍容を期待し得る程度を超えているというべきである。

以上の認定に反する控訴人の見解は採用することができない。

八、控訴人の過失相殺の主張について、被控訴人が名刺を示さなかつたこと、職務質問に対し興奮して多少荒々しい言葉を用いたこと、自ら警察署に出頭すべきことを申し出たことをもつて被控訴人の過失であるとすることのできないことは、被控訴人のこれらの行為について前に判断したところによつて明らかであると言い得べく、また被控訴人がその受けた疑惑をとくべく努力を傾けたことは多く言うまでもなく明らかなところであり、さらに本件の人ちがい事件について被控訴人が新聞発表を要請したというような事実はこれを認めるに足る証拠がない。その他本件の損害発生につき被控訴人に何らかの過失のあつたことを認めることができないので、これら過失相殺に関する控訴人の主張は理由がない。なかんづく、被控訴人の不法行為に因つて控訴人らの名誉を毀損されたと主張する点は、本件につき被控訴人に発生した損害額に関係するというよりも、被控訴人の不法行為に因つて控訴人に生じた損害賠償債権との相殺を主張するものであつて、民法第五〇九条により許されないものといわなくてはならない。

九、当審における被控訴人本人尋問の結果によれば、被控訴人は福岡弁護士会所属の弁護士として本件事故発生当時四、五万円の月収を得ていた事実を認め得べく、これと原判決認定の被控訴人の身分、経歴ならびに前示認定および原判決認定にかゝる本件人ちがい事件の経緯、被控訴人の精神的損害の程度、警察官の過失の態様等参酌するときは、原判決が控訴人から被控訴人に慰藉料として支払うべきものとした金七万円はその額において必ずしも不当であるとする点を見出すことができず、これに反する双方の主張はいずれもこれを採用することができない。

一〇、被控訴人は、さらに、原判決の定めた訴訟費用の負担の割合は不当であると主張するが、本件におけるように上訴が本案の点で理由がない場合、訴訟費用の点のみについての上訴は許されないものと解せられるのみならず(昭和一五年六月二八日大審院判決民集一九巻一三号一〇七一頁参照)、本件について原決判の定めた訴訟費用の負担の割合がとくに不相当であるとも認めることができない。(後略)

東京高等裁判所第六民事部

裁判長裁判官 内 田 護 文

裁判官 入 山  実

裁判官 荒 木 秀 一

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例